存在だいすきクラブ

強い気持ち

お題:耳と音と空間

洞窟や、もしくはトンネルを歩いたことがあるだろうか? 車がビュンビュンと横を通り過ぎ、死が2mの手許にあるトンネルもいいが、話したいのは一人だけのトンネル、一人になれるトンネルだ。

 

世の中には歩行者用のトンネルもあるし、使われなくなったトンネルもある。特に古びたやつだとか、人間味を感じないやつがよい。人間の仕事はつまり自然と闘うことのバリエーションである。放置されたトンネルなんかはすぐトンネルが自然に――つまり人間のバトル相手に――変わってしまう。そこでの孤独は都会のアパートの一室や、トイレの個室で叫ぶような孤独ではなく、闘争の孤独になってしまう。

 

僕の生まれた町には廃トンネルがあった。山の頂上を登らなくて済むように掘られたものだ。それは人間が三人くらい手を繋いで広がれば壁につくくらいの大きさで、乳を飲んでいた赤ちゃんが子供を産むようになるくらいの時間、自然の侵食を受け続けていた。

 

つまりボロい。夏場に向かうのはとても厳しい。名前も知らない草をかき分け、イノシシと戦うハメになる。だから僕は、水が背筋を伸ばす冷たさになる季節まで待ってから入ることにした。

 

もちろん明かりはない。ライトをつける。中はがらんどうとしている。Amazonの立派な箱に入っている、たった一つの単4電池になったような気分になる。お祭りの日、どこにこんなに隠れていたんだ、なんて人混みを見ているときみたいに自分をちっぽけに感じる。空間の中で僕は孤独だ。一歩一歩進めるたびにサーンサーンと言う足音が5回くらい響いて聞こえる。おそらく本当は無限に近い回数を反射し続けているのだろう。僕はそう思う。

 

使われなくなったトンネルはもろい。どこからか水が垂れている。ピチョン、ピチョンという音が正確な間隔で僕の耳に届いてくる。僕はライトを消す。あたりは完全に黒に包まれる。曲がったトンネルの中央部に光は届かない。ピチョン、ピチョンと言う音と、ほんの少し聞こえる僕の呼吸音が、世界にリズムと繰り返しがあることを教えようとしている。

 

この真っ暗な中を歩こうと思った。ライトなしで。正直バカだ。トンネルを日々壊している自然の攻撃は地面にも及ぶ。石や岩、落ちてきた天井、よくわからない根っこのようなもの、動物の死んだあと、とにかくデコボコしている。そこを真っ暗な中で、黒一色の世界で、歩くというのはケガと同じだ。でもそうしなければならないと思った。とにかく、黒の世界が僕に何らかの変化をもたらすと思っていた。

 

恐る恐る足を踏み出す。もちろん、すり足のように足を低く保つ。足を高く上げると何かに引っ掛ける。ピチョン、ピチョン、と音は続く。だだっ広い空間を感じる。とにかく壁がどこかにあることは分かる。でもそれがどこなのかは分からない。いつかは壁にぶつかるし、何かに転ぶだろう。でも前に進まないとトンネルからは出られない。

 

すり足は長くは続かない。サーン、サーンと言う足音はもう等間隔ではない。何だか分からないが硬いものが脚に触れ、そっと方向を変える。トンネルの出口だと思う方角を思い出し、また思い出し、ふと忘れ、また思い出し、忘れ、その場で決める。そのようにして脚は進んでいく。いまだにトンネルの出口は見えない。真っ暗な空間が続く。触覚と音が頼りだ。もしかしたら獣が冬を休んでいて、足をぶつけて起こしてしまうかもしれない。それがイノシシだったら? ヘタをすれば死ぬ。突き飛ばされるのは確実で、頭を打つのが4割、打ちどころが悪いのが1割くらいだろう。ムダな掛け算が頭を埋める。いま地震が起きたら? フェルミ推定が頭を踊る。

 

それは突然だった。耳元に何かが、何かが触った。僕はヒッと口から空気を出し全身を硬直させ、走った。

 

バカだったと思う。足元が見えないなか、ライトの存在も忘れて僕は走った。出口へ。曲がったトンネルの出口は小さな光点としてまず現れ、しだいに大きくなり、眼前に広がった。僕はハアハア息を吐いては吸う。光だ。つまり外だ。膝に手をおいてかがみ、ライトのスイッチを入れ、振り返ってトンネルを照らす。

 

トンネルは依然として黒だった。何もかもを吸い込むような真っ黒のトンネルは、その右半分を崩壊させた口を広げて、僕の前に立っていた。トンネルはすでに自然側になっていた。僕はいまだ人間で、自然にいつも負け続けるほうの人間だった。耳は水に濡れていた。僕は少し笑い、隣町の車が行き交う県道へと降りていった。

 

 

2017-09-24の日記

曇り、ギリギリで曇り。人によっては晴れと言うと思う。僕は曇りと言う。

 

久しぶりの友人と会う。中央線に乗っていると毎回うらやましく見えるスポットといえばどこだろうか。僕は断然市ヶ谷の釣り堀です。ということで市ヶ谷の釣り堀に行った。市ヶ谷周辺は川に沿って大学と企業ビルが並んでいる。奇っ怪な建物は少なく豆腐タイプが多くて、それはそれとして調和があってよいものだとおもう。

 

釣り堀は鯉を釣り上げるものだ。どうも生命力が強いイメージのある鯉は何度も捕らえられてはまた投げ返される釣り堀にいいのかもしれない。

 

そこそこの値段――2日分の食費くらい――を払って竿を受け取る。鯉の釣り方について看板が出ていたが、専門用語が多くてとても難しい。ぜんぜん読めない。大学で世界最高クラスのはちゃめちゃな文を読むトレーニングを受けた身でも理解できなかったので、理解できるひとはいるのだろうかなんて傲慢な心配をする。

 

釣り堀には人が多い。魚よりは多くない。過ごしやすい日曜日ともなると、家族連れ、カップルが席を埋めている。僕の隣には小学生男子の集団がいて、「ウキダンス」を踊って鯉を誘っていた。理屈は分からないけれど鯉が集まってくる。それを隣の小学生が網で直接すくう。パワープレイだ。宗教の起こりを見た気分になる。

 

何事にも熟練がある。失礼、何事は言い過ぎだ。釣り堀の釣りにも手馴れた人間がいて、おじさんがバンバン鯉を釣っている。技は見て盗むものだが、どれが技なのかわからない。流れの適切な文節化ができないものは魔法に見える。

 

鯉はわりと釣れる。釣り堀の魚は釣られることが死ぬことではない。そのために釣られたからと言ってそこで末代というわけでもないし、釣られたら上司に怒られるわけでもない。だからなのかコイツらは釣られることに恐怖心がない。少し恐ろしくなる。死なない人間がいたらミツバチの巣に頭を突っ込んで蜜を舐めるのだろうか? そうかもしれない。

 

鯉が釣れると針を鯉の口からはずす作業が発生する。これはとても厄介というか、めんどくさい仕事だ。ぬるぬるする鯉をつかんで、パクパクする口から返しの針をクリップを曲げるような手の動きで外す。鯉は暴れる。暴れるものに無理やり何かをするのは抵抗感がある。良心の叫び声が聞こえる。そこで僕はできるだけ釣らないことを決心する。

 

エサがくわえ込まれ、ウキが沈み込んだ瞬間に竿を上げることで鯉の口に針を引っ掛けるというのが流れだが、僕は竿を能動的に上げない。ただ流れに任せる。それでも引っかかるやつは引っかかるのだが、それはしょうがない。ぼーっとする。ときおり通る電車の音、ビル群。家族連れ、カップル。そんなものを見ながら、たまにクイクイと遊ぶようにウキが沈むのを見ている。

 

これは魚に接待されているようなものだ、これは魚のキャバクラだ、と友人は言う。僕は魚に遊ばれながらエサを釣り針につけては投げ入れる。クイ、クイと糸が水に張る。無言のカップルたちが黙々と魚を釣り上げている。日が落ちてくる。

 

何も釣り上げない釣り人になりたいなあと思って僕は竿を係員に返す。金魚釣りコーナーに幼稚園児が遊んでいる。張り紙にスマホやメガネを釣り堀に落とすとほぼ取れませんので注意と書いてある。スマホとメガネを釣り堀に投げ込んで、何も釣り上げない釣り人になりたい、そう思った。

2017-09-23の日記

孤独だ。

 

雨を告げる雲が広がっていたけれど、雨を告げるばかりで、降りはしなかった。

 

労働。特に何もしていない。エアコンからカビのにおいがする。人々が疲れている。窓から見下ろした街に猫が歩いている。終わり。

 

人と会う。アルコールを飲む。アルコールを飲まないと消え去りたくなるが、アルコールを飲むと消え去りたくなる。結局のところ消え去りたい。歴史からふっといなくなりたい。戸籍や、親の記憶や、人々の視界の隅っこから消える。

 

自罰的にはなってはいないが、とにかく心からあったものが抜けていく感覚が強い。ボトボトと穴の空いたバケツから粘性のものが落ちていく感じだ。よくない。睡眠時間は足りている。栄養も大丈夫だろう。何がレールの上で邪魔をしているのか? そもそもレールなんてあったのか? 軌道のための車輪で未舗装路を行くのは耐えがたい。

 

きわめてクリアーに自らの境遇を書き出してもそれは解決ではなく、きわめてクリアーに問題を理解したに過ぎない。プライドと強がりがガラガラとトンネルを塞ぐ。プライドと強がりを崖下に落とすのも一苦労だ。

 

人生は自分から見れば常にタイトロープを渡っているように見える。もしかするとそれは気のせいで、大地の上に引かれた白線をタイトロープだと思い込んでいるだけかもしれない。そのとき僕はバランスを崩しても死にはしない。でも本当にタイトロープを渡っているのかもしれない。そのときは死ぬ。ただ信仰だけが安らぎを与え、酔いだけが目をつむらせてくれる。

 

幸福になれるかもしれないリストにバツはどれだけ並んだだろうか。半分まできていても、まだ前半も前半だとしても、どちらにせよつらさは軽くはならない。すでに埋まり終わっていることに気づいてないだけかもしれない。また信仰と酔いだ。僕はどちらも手に入れられない。

 

太陽が昇って降りるたびに孤独は強く巻き付く。圧迫された肺では呼吸にも苦痛を感じる。本のページ数を数えて読まない。

 

信仰と酔いを欲している。自分が登場する物語を。僕はまだ待っている。

 

2017-09-22の日記

なんか目を通すと思ったよりだめだったのでこの日の日記は削除しました。

2017-09-21の日記

晴れ。まだ暑さは残るが、少しずつ空が高くなっていくのに気づく。秋へと近づくのが分かる。

 

なんか牛丼とか食べたような気がする。いつもそんなものだ。

 

起きて少し本を読む。今日はかなり長めに眠った。長く眠りすぎるのもよくないと聞く。七時間がよいとか、統計的に死ににくいのはその辺りらしいが、死ににくくてもしょうがないような気もする。

 

最近アリに襲われる夢をよく見る。土に還りたいとでも読めばいいのだろうか。分からない。

 

労働をする。無心。

 

夜からのスケジュールがキャンセルに。無心。

 

コーヒーを握って公園に入る。女子大生が「てか過ごしやすくね」と言っていたのを思い出すほどに人が多い。過ごしやすいと人は公園に集まり、肩を抱き合う。僕はそれを見ている。子どもたちが繰り返し繰り返し滑り台を降りる。そのたびに少しずつ滑り台が汚れていく。

 

公園に座っていても何も起きないことに気づきだす。「みくみくにしてあげる」投稿から昨日で10年経っていたことに気づく。僕はみっくみくになっていない。ただ10年が過ぎただけだ。

 

10年が過ぎて僕は少し生きづらくなった。変わったのはそれくらいかもしれない。与えられたことを少しやり、座っているべき場所に座っていて、何もすることがない時間に何もしない。対象のない不安に不安を感じて、一人で自室に帰る。ものに当たっても消えないだろう苛立ちが残るだけだ。残高と、今日の食事を気にしなければならなくなったことだけが変わった。僕はまだみっくみくになっていない。時間はただ時計を進めている。

 

メガネを受け取った。度数が上がる。メガネの度を強くするたびに後悔する。世界が見えやすくなるからだ。ホコリ、産毛、アスファルトに残る吐き跡、警察官が見ているバッグの中身、とにかくよく見える。特に顔。他人の顔はよく見えないほうがよい。顔は見えないほうが魅力的に見える。

 

とにかく空のペットボトルを片付けないといけない。彼らは古びても匂いを発しないので、片付ける優先度が低く、部屋に残りがちだ。生ゴミはよく捨てる。燃えるゴミもよく捨てる。ペットボトルは難しい。

 

それくらいだ。就活が終わってからとにかく鋭さが消えている。ふわふわとした気分が治まることがなく、高く空を飛ぶように物事を細部まで見ようとしない。言葉づかいもとても荒い。一文字に迷うこともない。他人と歩調を合わせていては道横の草花を愛でているヒマもない。彼らと語彙を合わせていては伝わらなさに賭けるような言葉も吐けない。とにかく暇が必要なのだ。暇にはお金がいる。お金には時間がいる。時間を払っていては暇にはなれない。とにかくこの社会は生きにくい。

 

明日も労働がある。明後日も。労働を解消しても労働がやってくる。夏休みの友より悪質だ。

 

この世界の外ならどこでも

人生というのは、病人みんなが寝るところを変えたいなんて欲に取り憑かれた病院だ。

 

ある人はどうせならストーブの前でうなされたいと思うだろうし、また誰かは窓のそばなら元気になれるなんて信じてる。

 

ここじゃない場所なら僕もきっとよくなるなんてずっと感じてるし、別のところに行けばよくなるんじゃないか問題をいつも僕の心と議論してる。

 

「答えてくれ、僕の心よ、かわいそうで冷え切った心よ、リスボンで生きるってのはどうかな。そこは暖かいっぽいし、トカゲみたいに元気になるんじゃないか? 

 

街は海に近いし、大理石で出来てるなんて聞く。住んでる人は植物が嫌だから全部の木を抜いちゃうそうだ。景色だってきっと好きだよ、光と無機物、それを映す水だけでできてるんだ!」

 

僕の心は答えない。

 

「動くものを見ながらのんびりするのが君は好きだから、じゃあオランダとかどうだ? あのハッピーな場所! 美術館でオランダの絵を見てよく感動してたじゃないか、そんな国なら気晴らしくらいできるんじゃないか。ロッテルダムはどうだ? 森みたいなマストの群れだとか、家の足元に繋がれた船とか大好きだろう?」

 

僕の心は黙ったままだ。

 

バタヴィアがもっといいんじゃないか? ヨーロッパの精神がトロピカルな美しさと結びついてるのが見られるぞ。」

 

一言も返ってこない。僕の心は死んじゃったのか?

 

「それじゃあ君は、病気にしか気持ちよくならないくらいに、麻痺しちゃったのか? それなら、せっかくだから死のアナロジーの国に逃げちゃおう――それじゃあ決まりだ。かわいそうな心! 

 

フィンランドの果てに荷造りをしよう。どうせだからもっと先、バルティック海の最果てまで行こう。もっと先、できるなら生きることからも離れて、極地に住もうよ。そこなら太陽も斜めにしか地面に出てこないし、光と闇がゆっくり交代するから変化なんて消えていって、あの単調な感じに――半分無って感じの――退屈な感じにどんどんなっていく。

 

そこでなら暗闇を長い間浴びることができると思う。そして、たまにオーロラが、バラ色の光の束を僕らにくれる。それは空に映った地獄の花火みたいなんだ!」

 

ついに僕の心は爆発して、僕に向かって正しくこう叫んだ。

「どこでもいい! どこでもいいんだ! この世界の外ならどこでも!」

 

 

 

Baudelaire, Le Spleen de Parisより

2017-09-16の日記

くもり、のち雨。台風が近づいている。

 

六時くらいに起きるが、眠く、昨晩のアルコールが残っているようだった。パソコンを立ち上げ、カーテンを明け、寝る。

 

14時くらいに起きる。グラノーラを食べる。気合でお米を計り、水を入れ、炊飯器のスイッチを入れて、寝る。

 

18時くらいに起きて、ご飯を食べる。冷凍庫をまさぐり、酢豚の冷凍食品を発見するが、賞味期限が去年で、また別の機会に食べることにする。よくわからない唐揚げを食べ、本を読んだりして、今に至る。極めて内容がない一日だ。くたばっていた、と言うのに近い。

 

昨晩、人と会ってアルコールを飲んだが、珍しいくらいにコミュニケーション交通事故だった。5:5とか2:8みたいな責任を分配しあう謎の概念が事故には存在するらしいけれど、それもよくわからず、なぜ事故が起こったのかも両者よくわからない状態だった。雲と蝿の接触事故みたいな感想です。

 

さて、今日は特に何もしていない。ノーイベント、ノーライフ。これは出来事も人生も(大文字の!)存在しないという主張です。

 

日記はできるだけセルアウトにしないと心がけたいと友人に漏らしていたので、そうしたい。可読性は保つが、ウケを狙うわけではない、ということとして表現される気がする。

 

ミサイルが頭上に落ちてこないでほしい、と思う瞬間がこれまであったのかどうか考えている。責任と罪よりも自責感がミサイルを呼び込むのだろう。ミサイル招降の儀。脳内で神主がヒラヒラのついた棒を振っている。安そうな鯛と酒が置かれ、藁でできたミサイルを祀っている。我々の罪はミサイルの炸裂によりチャラになる。メルカトル図法の地図の前で僕らは祝詞を聞く。

 

車が走っては水たまりを巻き上げる音が聞こえている。高い場所に住むと雨粒が何かに衝突する音が聞こえず寂しい。トタン屋根を少しずつ削る雨音は世界が世界を殴りつけているようで、いつまでも聞いていたい音だった。車のワイパーの一挙手一投足、水槽のポンプ音、ブラウン管の立ち上がる音、ゆっくり引かれるバイオリンの弓。AMラジオの雑音。古びたエアコンと冷蔵庫の会話のような音。

 

雨が強くなってきている気がする。風はない。湖の近くに行って、雨が湖面を踊らせる姿を見たい。

 

雨漏りが何かを打つ数を数える。死ぬまでに残された日々とどちらが多いだろうか。

 

眩しさに瞬きをするような光を見たい。