存在だいすきクラブ

強い気持ち

2017-09-14の日記

晴れ。少し暑い。夜に雨が降る。セミが一生の終わりの声を上げ、死んでいく季節だ。

 

気分は悪くない。

 

髪が乾くのを待ちながらこれを打っている。

 

朝に起きる。地震の夢で起きて、寝て三時間後くらいに本当に地震が来る。じゃあ三時間前くらいに微震でもあったのだろうと調べるもそんなこともない。まあそういう偶然の一致も時にはあるだろう。人生は宝くじを引き続けているようなものだ。

 

昼から労働へ。途中で無意味さに耐えられなくなったので近くの道を歩いていると猫が横になって寝ている。猫の寝方には何種類かある。人間で言うとレム睡眠というか、浅い眠りで、ただ横になっているだけの眠り方だ。アリが上を這おうとしては蹴落とし、体を震わせている。僕がそれを見ていると大きく伸びをして起きる。僕は撫でる。

 

おばあさんのグループがやってくる。「猫が好きなの?」と聞かれたのでまあそうだ。と答える。チラシを渡される。日蓮系だ。「南無妙法蓮華経を唱えるとみんな幸せになれるの、みんなよくなるの」と言われる。僕はありがとうございますと答え、そそくさと立ち去る。近くの神社に行き、そこにいる猫を撫でる。

 

チラシを見る。宗教施設は近い。そこからの帰りだったのだろう。題目を唱えるとみんな幸福になれると書いてある。確かにおばあさん達は笑顔が多かったなあ、と振り返る。趣味はよくないが高そうなメガネをかけ、白髪。みんな幸福になれるのかあ、そうかあ、と南無妙法蓮華経と言いながら猫を撫でる。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。猫を撫でる。猫を撫でる。無理になってきた。無理だ。僕は幸せにはなれない。僕は、みんなではない。

 

ここのとこ警察が多い。パトカーがゆっくりどこそこを回っている。何かあるのだろうか。

 

安喫茶で本を読む。不安になる。カフェインがいけないのだろうと心を落ち着かせる。不安になる必要はない。不安の対象はない。

 

夜は何も考えずにファストフードに飛び込む。人が少ない。接客も雑で落ち着く。コップをぶん投げるくらいでいいと思っている。

 

自室に帰る。洗濯物を取り込む。雨が降る気がするから。降った。直感は正しい。

 

確認:メルロポンティの他者

 

台風が近づいている。強いらしい。台風は強いときにしか称号がつかない。猛烈な、非常に強いとか。多くの人がビビらなくなるので弱い、とかの称号は消えたらしい。やさしい気がする。でも人間だと「弱い人間」という称号を得ると強く振る舞えるときもある。称号がつかない、概念化されない人々がだいたい一番かなしい。

 

はやく激LOVEになりたいとばかり考えている。それはいいことだろ? そうかな。僕は残高のことを考えている。車が雨に走っていく。換気扇が回っている。心に換気扇はあるのか? 回したい。

2017-09-05の日記

夏も病床で死にかけているが、今日は久しぶりに目を開き、付き添い人に喜ばれるような感じだった。

 

つまり少し暑かった。汗ばみ、シャツの胸元の色が変わる。僕は汗をかきやすい体質だ。暑い場所で生まれたからなのか、もしくは小中学校時代に35℃の直射日光のもとで運動を強いられていたからなのか、まあ理由はわからない。

 

昼前に起きてバイトに行く。頭を使うけれど、なんというか頭の単純作業だ。頭の単純作業は精神によい気がする。体の単純作業は思考の余地を残してしまって頭に到来する過去や未来に苦しんでしまうし、頭の複雑作業は単に疲れる。

 

明治期の頭脳労働者はときおりノイローゼとして休暇が取れたようだし、頭を使いすぎるのもよくない。頭の単純作業(たとえば文字起こしとか)は気づかないうちに時間が過ぎて、カラスが羽ばたくくらいの体感時間で8時間とか過ぎる。時間とお金の交換としてはこれが一番いい気がする。僕らが売り渡すのは主観時間なのだが、彼らにとっては客観時間だ。

 

本屋に寄る。待っていた新刊を買い、服を一着選ぶ。欲しい服は無限にあるが、お金がないのでとにかく妥協する。貧困ではないとは財布の中身と残高を意識せずに済むことだ。それくらいのことをいいたくなる気温だ。

 

ツイッターをやめている。別のことに意欲が湧くのはいいかもしれない。遺伝子に組み込まれているだろう認められたいポイントの割り振りだ。ツイッターに割り振っていた認められたいポイントが宙に浮いたので、久しぶりにキーボードをカタカタしてプログラムを打ったり、日記を書いたりしている。認められたいポイントを適切に割り振れば即身仏とかにもなれるかもしれない。彼らには神聖ポイントが見えるのかもしれないけれど。

 

それほど精神が不安定ではない。水たまりに小石が飛んだ程度の波だ。じきに平面に近づくような波。

 

秋が近寄る。車が水たまりを跳ね上げて走っていく音が近くに聞こえる。窓から虫の声は消え、都会の電子機器たちのささやきだけが届く。

 

薬をシートから出すときに親指の爪の先を少し剥がしてしまう。時折の痛みが自分が世界にいることを見せてくれる。そんなときくらいにしか真剣になれない。シャキッとできない。持つところまで火薬の詰まった花火とか、バンジージャンプ。火遊びをしたくなる。僕はぼぉーっとしている。

 

「際限なくダラダラできるタイプですか?」ハイと答えられない自分が悲しい。

2017-08-19の日記

たまにでも書く。いつも書きたいけれど、書けるときにしか書けない。

 

友人宅でゲーム制作の合宿に参加していた。昨日からです。合宿を合宿にするものとは何なのだろうとかを考える時間だった。僕はお酒を飲んでいただけだし、やっぱり東京から出ないと合宿じゃないかもしれないとか考えていた。都会の真ん中の私有地で花火をやったけれど、花火をやるために花火をやった感じだ。でもだいたいあらゆるものはそんなものなのかもしれない。僕は人生をやるために人生をやる。花火に飽きて無駄に紙を燃やしたりした。むしゃくしゃした苛立ちや無意味への耐えられなさは燃え尽きない。

 

さて、今日の話、朝は合宿先で起きて、そういえば合宿といえば寝る前のパジャマでのラブトークとかだと思うのだけれど、合宿の適齢期から遠く離れた僕達には無理だった。

 

さて、今日の話。久しぶりに昔のクラスメイトと会ってカレーを食べる。人と人が話すというのは難しいなあと思う。みんな孤独だとか思ったりする。金魚を見る。金魚たちは水槽で押し合いへし合いしながら泳いでいるけれど、寂しがったりするのだろうか、とか考えたところで「淋しい熱帯魚」のイントロが頭の中で鳴りだしてそれどころではなかった。

 

家に帰ってお金のなさをしっかりしっかりと認識する。手を打たないといけない。とにかくVALUに登録した。生きることにはお金が必要で、お金のためには生きることを提供しないといけない。生きることでさえ大変なのに、お金を得ることはさらに大変だ。いや、分からない。僕は生きるのを止めたことがないので、お金を得ることが生きることより簡単かもしれない。

 

だんだんと夏は終わりに近づいていく。雨は一歩一歩確実に秋を呼んでいる。夏をただの夏で終わらせたくないなあ。毎年そう思う。

2017-08-09の日記

ひどく日にちが空いてるなあ。

 

いろいろとイベントがあった。バイト先を変えたりとか、変な雇用関係を結んだりとか、とにかくやる気がなくなってきた。暑さのせいだろうか? そうしよう。

 

救急車が近づいて、遠ざかっていった。書いている今の話です。

 

きょうはとにかく暑かった。北に逃げた台風のせいで東京は37℃とかだった。僕は極力自室にこもって、特に何もしなかった。ご飯を無理に食べ、布団に転がり、ご飯を無理に食べ、布団に転がった。

 

食欲とは何か食べたいものがある状態を指すらしく、その基準でいったらここ五年くらい食欲はない気がする。正確にカウントしても少なくとも3ヶ月くらいは食欲がない。もしかしたら高いものでも常食したら食欲が湧くかもしれない。でもそれって死後の世界が存在するのかどうかくらい僕には関係なく響く。

 

ご飯を食べないと何もできないし、憂鬱も雪だるまのように膨らむ。でもご飯を食べるのはちっとも面白くない行為だ。ひとと話しながらだとまだマシで、食べること自体が嫌いなのだろう。誰かと食べるべきだ。

 

生活に刺激がない。作ろうと思えばできる話だ。山や海に行くとか、人を呼ぶとか、破滅的な動きをするとか、玉川上水に飛び込んでもいいし、割腹自殺を図ってもいいはずで、とにかく怠惰さとカロリーの足りなさが悪い気がする。そうなると「誰か僕を連れ出してくれ」と祈るばかりの置物となって布団の上を転がり続けるはめになる。よくない。

 

幼少期の雨の中のドライブを思い出してばかりいる。冷たいクーラーや、ワイパーが動く音だとか、チュイーンと音が混じるラジオだとか。無責任に眠気を感じていられる状態は幸せを感じていられる気がする。

 

さあ、トイレットペーパーがあと一つしかない。郵便物がある。保険証を見せに行かないといけない。ハンコを押す書類がいくつか。

 

海に上向きでたゆたっても、カツオノエボシとかが怖くてしょうがないような人間になってしまったのだろうか? 安心は無責任の上に思考停止を求めるのか? 不安はそこら中の穴という穴から漏れ出てきて、ガムテープくらいじゃ収まりそうもない。穴を塞ぎにいけば新しい穴を見つけるばかりだ。

 

とにかく日々はすぎて、僕も年をとっていく。まあいいんじゃないか。最近はそう思う。

 

 

2017-07-28の日記

自分を振り返ることは重要だと三回口に出してようやく書く気になってくる日記だ。

 

曇りのち雨。ねっとりとした空気。気温は下がるけれども、とうてい軽やかな気分にはなれない。

 

起きた瞬間に憂鬱だったので、とにかく外に出ようと決め、海に行くことにする。波頭が砕かれる様子は十分にランダムで、ずっと眺めていられるだろう。心を落ち着かせるためにも、と思う。

 

路線バスの運転は心なしか荒い。バス停留所に設けられたステップにはまともに止まらず、そこから道路側に5mくらい離れて止まり、また橋を超えるたびにジェットコースターのような加速度を感じる。身体的な恐怖感はいくぶんか心を和ませるのに役に立つ。

 

夏の雨の雲が広がっている。空の低い位置に灰色の水彩絵の具を溶かしたように雲が溜まる。ゲートブリッジの付け根には整備されたキャンプ場があり、土曜日の人通りは多い。300円を払うと入れるキャンプ場には大勢の親子連れがいて、コールマンのテントが並んでいる。判子を押したような光景が並ぶ。警備員が見つめている。

 

ゲートブリッジは高い。しつらえた、という感じの9階建ての立派なエレベーターがあり、それで橋の上に出れる。警備員に会釈しながら出ると、その瞬間に放送で東京に雷注意報が出たことと橋から退避することの要求が告げられ、苦笑しながら降りる。風が強く、車が通るたびに小刻みに揺れる。おもったより小ささを感じた。幼少期に渡った、最近落ちた橋のほうが大きかったような気がする。

 

幼少期はとにかく圧倒される大きさのものが多かった。体の小ささは世界を偉大に高貴に写す。大人の体と精神には卑小なものが多すぎる。日本一の高さは日本一の高さでしかなく、復元されたと知ってる城に天守に圧倒はされない。いまの僕には崇高さを感じることは難しい。

 

帰り。冷房の強いバスは心地よい。高速で地面を動きながら眠気を感じることができるというのは文明の大きな恩恵だ。僕は車で眠気を感じるのが好きなことを思い出す。でもバスの長距離移動は電車と比べて高い。誰かの助手席に座りたいと思った。

2017-07-28の日記

眠れない時間はただ僕が銀色の砂に沈み込むのを眺めているみたいだった。ひどく心が落ち着かない。ザラメが心の上にくっついて取れないような感覚が残る。

 

何かいけないのか?

 

物事は正確に把握してはならない。幸福に正確さは遠回りを強いる。因果と責任は遠く遠くに投げ置くものだ。

 

その一。昼ごはんが少ない。これは食べる。その二。飲み会。これは参加を断ろう。

 

コミュニティには断絶がある。それらは代表的な思考形式で振り分けられる。一、共感優位と情報優位。二、意思責任と環境責任。あとはまとまっていない。少なくとも繋がりと因果についての断絶があると思う。

 

僕は何をすべきか?

 

空っぽの時間を作らない。何かに集中する。プラモデルとかジグソーパズルとかプログラミングとかそういうものでいい。とにかく思考を空転させない。

 

人間への信頼を取り返す。

 

これは近いコミュニティと触れ合うとよい。もしくは放っておけば定位置に減衰するだろう。

 

カロリーを取る

 

これは難しい。安価なカロリーは食べにくく、食べやすいカロリーは高い。考える必要がある。

 

とにかく無理してコミュニケーションを取ろうとしないほうがよい。コミュニケーションの成立に気をかけない。大学の友人がいいことを言っていて、一発狙いすましたスナイパーライフルを撃つよりマシンガンをめちゃくちゃに撃ったほうがよい。これは、事実はともかくとして、主観的な利を見たときはそうだと思う。そうする。

 

不安の解消

 

厳しい。何に不安を抱いているかわからないからだ。誰かみたいに、それが不安の本質だろう、と言われるのならば、ならば僕の不安を取り除いてみせろ、と返すしかない。問題はここで起こっているのであって、文献の中で起こっているのではない。深呼吸や体を緩ませたりとか、どうにかするしかない。

 

とにかくよくない。ふるふると動いてみたり、地団駄を踏んでみたりとか、そういう動きが増える。心の中のハンドスピナーが止まらない。暑さがわるいのか。そうだと思う。

 

すべてが静かになってほしい。海の底で眠りたい。